幕末の先覚者「高野長英」

こんにちは! e-tomeINFOのライター、いち子です。

さて、6月3日に水沢のプチ観光の様子をお届けしましたが、そのプチ観光の際に高野長英記念館にも訪れておりました。
そこで、今回は記念館の様子と水沢の偉人「高野長英」について、どんな人物かを簡単にご紹介したいと思います。

水沢のプチ観光の記事はこちら

記念館の場所はこちら

高野長英記念館がある場所は、水沢公園の敷地内にあります。
公園の正面入口の右手(案内図の赤枠で囲った場所)です。

施設の案内

高野長英の誕生日である5月5日と命日の10月30日、水沢で行われる火防祭の本祭の日である4月29日は、誰でも入館無料で見学できるみたいですよ。

また、水沢公園内の市営駐車場を利用の場合、入館受付の際に駐車券を提示すると駐車場無料サービス券がもらえます。

いざ、記念館の中へ

記念館の入り口はこんな感じです。
ちょうど、開館50周年だったんですね、のぼりが立っていました。

記念館の敷地には石碑なんかも建てられていました。

どんな人だったのか

蘭学・医学に長けていた人

長英は9歳のときに父親をなくし、母方の伯父の高野家の養子になります。
高野家では養父が蘭方医、祖父が漢方医だったことが、長英が蘭方医学に興味を持ったきっかけなのだとか。

若い頃に養父の反対をお仕切り蘭学を学ぶべく、江戸へ旅立ちました。その後、長崎の鳴滝塾でシーボルトに医学や蘭学を学びました。
オランダ語はぐんぐんと習得して、とても優秀な成績を修めています。

そんな中、シーボルト事件が発生!
シーボルトに関係があった人たちが処罰されるなか、危険を察知したのか、偶然か、うまく難を逃れて長崎を後にしています。

壮絶すぎる、蛮社の獄(ばんしゃのごく)

シーボルト事件の後に江戸へ戻り、町医者をしながら蘭方医学の研究をしていました。

モリソン号事件の発生をきっかけに鎖国やモリソン号を砲撃したことなどの幕府の対応を「戊戌夢物語」に書いたところ、幕府批判だと牢屋に入れられてしまいます。
しかも「永牢」という、今で言う無期懲役刑です。

その後、牢屋が火事になった際に脱獄します。
薬品で顔を焼き、医者をしながら逃走を続けますが、最後は自害し亡くなってしまいます。

壮絶すぎる人生ですよね。
高野長英が亡くなってから3年後に浦賀にペリーが来航し、その翌年に日本は開国しています。
「戊戌夢物語」で、日本の外交について記した高野長英は先見の明があったってことでしょうか。

最後に…

だいぶ省いて高野長英について説明しましたが、医学に関する本を書いたり、蘭方医学の書を翻訳したりなど、たくさんの貢献・功績をあげた人だったんですね。
詳しくは「高野長英記念館」を訪れて、実際に見て感じて知ってもらえたらと思います。

それでは、また次回、お会いしましょう。

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